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長谷部靖男教授の憲法学への疑問(3):樋口教授の主張との比較

 参考文献のリストに、言及されるべき本が抜け落ちていたとしても、うっかりミスと言えるかもしれないが、参照した文献の内容を曲解しているとすれば問題である。

 昨日から述べているように、長谷部教授の『憲法(第2版)』の113㌻の部分では、樋口教授の『憲法』を参照したうえでの主張ということになっているが、どの『憲法』の本であるかは定かではない。しかしおそらく、樋口陽一教授の『憲法』(創文社、1992年)であろうと想像がつく。長谷部教授の本では、参照ページは「192-95頁」となっているが、樋口教授の『憲法』では、189~192ページにかけて、「第四節 権利保障の限界」の中の「Ⅰ 実体法的限界――『公共の福祉』条項の意味」の個所で、「公共の福祉」について論じられている。

 樋口教授はそこで、憲法13条の法的意味についての解釈を以下の通り2つに大別する。

 大別して、第一の考え方は、一三条の「公共の福祉」が、原則としてすべての憲法上の権利にとっての制約根拠となる、とする。それに対し第二の考え方は、一三条は「公共の福祉に反しない限り」国民の権利について「最大の尊重を必要とする」としているのであって、積極的な制約根拠をそこから引き出すことはできない、とする。(樋口陽一、『憲法』創文社、1992年、189-190㌻)

 このうち第一の考え方は、人権の外部に、人権を制約する根拠として「公共の福祉」を想定する「一元的外在制約説」のものである。これに対して、人権を制約する根拠を主に、各人権の「内在的制約」に求める「一元的内在制約説」(あるいは「二元的制約説」)は第二の考え方に近いと言えるだろう。そして、樋口教授は「憲法史・憲法思想史をふまえているのは、第二の考え方のほうである」(『憲法』190㌻)と述べたうえで、次のように説明している。

 「公共の福祉」というシンボルは、啓蒙専制君主によって好んで援用された(salus populi, suprema lex)が、近代立憲主義の確立期には、いったん憲法史の表舞台からすがたを消した。この観念が再登場するのは、社会経済的領域での積極国家化に伴って経済的自由を制約するという文脈でのことであった(ワイマール憲法一五三条三項)。日本国憲法が個々の権利条項のなかでは経済的自由権条項(二二条一項、二九条二項)でだけ「公共の福祉」による権利制約の可能性を定めていることの意味は、そのような背景のもとではじめて、十分に理解されるはずである。(『憲法』190㌻)

 このように樋口教授は、人権とは別個に、その外部にあって人権を一般的に制約する原理として「公共の福祉」を捉える立場を否定的に理解している。そして次のように続ける。

 もちろん、「公共の福祉」という観念がいったん消失していた時期にも、「自由とは、個人を害しないすべてのことをなしうることである」(一七八九年宣言四条)とされていた。このことは、「権利の内在的制約」という言葉で説明されることが多い。近代立憲主義確立期の権利のあり方を基準とする憲法学からすれば、その段階で確立した経済的自由に対して現代型の制約が課されるようになった状況(例えば憲法二九条二項)は、権利の外側からの制約と見られるのに対し、ここでは、「内在的」といういい方があてはまるだろう。実際、「自由」といっても、のっぽえらぼうなものではなくて、それぞれの歴史社会のあり方に対応する輪郭を持ったものなのである(財産権が「神聖不可侵」とされた時代にも、個人の尊厳という価値を否定する人身売買契約や、等価交換の原則を否定するような暴利を伴う金銭消費貸借は、法的保護を受けなかったように)。(『憲法』190-191㌻)

 このように、樋口教授は、啓蒙専制君主に好んで援用された「公共の福祉」というシンボルが消えたときにも、自由が無制約なものではなく、内在的な制約のもとにあったことを明らかにしている。この記述からしても、少なくとも長谷部教授のように、樋口教授の主張を論拠にして、「一元的内在制約説」の批判として、一元的内在制約説は殺人や強盗、監禁・暴行の自由など「およそ人は自らの好むことは何であれこれをなしうる天賦の『人権』を有するという前提がある」と述べていることは、全くおかしなことと言わねばならない。

 明日以降、さらに樋口教授の主張をみていこう。

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Comments

もしかすると、先生は、人権保障の考え方において、一応の(prima facie)保護と最終的な保障との区別があることを、ご存じないのかもしれません。

一応の保護とは、人権がとりあえず保障を及ぼそうとしている範囲内にあるものを指し、表現の自由であれば、あらゆる内容・手段による表現であります。

これに対して、最終的な保障というのは、人権制約にも屈することなく最後まで保障が及び続けるものを指します。

つまり、わいせつな表現や名誉毀損的表現は、一応の保護は及ぶかもしれませんが、最終的な保障は及びません。

もっとも、アメリカのように、わいせつ表現を「そもそも表現として保障する価値なし!」として、そもそも一応の保護すら及ばないと解釈する立場もございます。

要するに、一応の保護の範囲を拡大すれば、それだけ許容される人権制約の範囲も広がりますし、一応の保護の範囲を狭く解すれば、人権制約とみなされる場面も少なくなります。

上記の例ですと、一応の保護を広く解すれば、刑法のわいせつ罪は表現の自由に対する人権制約と解されますが、アメリカのように一応の保護を狭く解すれば、わいせつ罪は表現の自由に対する人権制約ですらありません。

ここから本題ですが、
樋口教授が語っていたのは、一応の保護という形で人権の保障範囲を「量的に拡張」するのではなく、最終的な保障の方に最初から目を向け、人権の内容を「質的に限定」することが必要だ!ということです。

これに対して、
長谷部教授は、一応の保護と最終的な保障との区別を前提として、一応の保護が及ぶ範囲の問題として、殺人の自由等々に言及していたというわけです。
当然のことながら、長谷部教授であっても、これらの自由に対して最終的な保障が及ばないことは十二分に認識しております。

なお、ホッブズの社会契約論では、殺人の自由をも含めた自然的な自由を前提として自然権を構想しておりますので、これに対して一応の保護が人権として及ぶと長谷部先生のように解したとしても、特段奇異なことではございませんし、樋口教授の主張とも何ら矛盾はいたしません。

Posted by: prima facie | May 29, 2009 at 11:38 PM

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