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長谷部恭男教授の憲法学への疑問(6):一応の自由?

 引き続き、長谷部恭男・東京大学教授の「一元的内在制約説」理解の妥当性を検討していく。

 長谷部教授はこれまで見てきたように、一元的内在制約説を、「人殺しの自由、強盗の自由」などを「天賦人権」として前提とする考え方と理解したうえで、次のように述べている。

 また、「人権」を本来、無制約とするこの考え方は、公共の福祉を名目とする国家による規制をも無制約とする危険をはらんでいる。他者にほしいままに害悪を加えようとする生来、邪悪な存在として人間を想定する限り、平和な社会生活を成立させ、維持すべき国家の行動範囲が無制限に及んでいくことも不思議ではない。その結果、あらゆる人権は、そもそも公共の福祉の観点からも制約を内在する「一応の自由」にすぎないとの結論が導かれる。社会に完全に飲み込まれない形で「個人を尊重」するためには、公共の福祉の観点からしても制約されるべきでない「人権」を保障する必要がありはしないかという問題は、このような観点からは見失われることになる。(長谷部恭男『憲法(第2版)』、新世社、114㌻)

 しかし、この主張も、長谷部教授が参照文献としてあげていた樋口陽一教授の『憲法』(創文社)との整合性から考えれば、はなはだおかしな主張であることがわかる。

 樋口教授は、公共の福祉を人権にとって外在的に存在し、原則としてすべての憲法上の権利にとって制約となるものとして理解する考え方(これを「一元的“外”在制約説」と言い換えてよいだろう)に対立する考え方について、次のように説明している。

 他方の考え方は、一応の(prima facie)権利という想定をみとめたうえでそれへの制約を論ずる、という構成を否定するから、近代立憲主義の核心におかれてきたはずの権利についてのバーゲニングを拒否して、それを擁護するのに適している。(樋口陽一『憲法』創文社、192㌻)

 上記の引用から明らかなように、樋口教授は、「一元的“外”在的制約説」を批判して、同説が人権を「一応の権利」と想定すると述べているのであり、これを長谷部教授のように、「一元的“内”在制約説」の論拠として参照することは全くの誤りなのである。

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樋口教授は、大陸法の諸学説において語られているところの内在説・外在説のお話を前提としているのに対して、長谷部教授は、日本国内における用語法としての内在的制約説について言及しています。

大陸法系の憲法学説では、権利の範囲を確定するプロセスにおいて人権制約の許容性に関する考慮を内在させるか・させないかで、内在説と外在説とに別れております。

外在説を採れば、人権の範囲と人権制約とが区別されることになりますので、一応の保護と最終的な保障とが区別されることになり、したがって、人権が最終的に保障されるかどうかは、①一応の保護が及ぶ範囲の確定、②人権制約が許容されるかどうかの判断(最終的な保障が及ぶ範囲の確定)という2段階が生ずることとなります。

これに対して、内在説ととれば、人権の及ぶ範囲の確定は最終的な保障が及ぶ範囲と同視されることになりますので、1段階のプロセスのみで人権の保障範囲が確定されることとなります。

さて、我が国の憲法学説がいうところの「内在的」制約ですが、上記でいうところの「内在」とは全く意味が異なります。

日本の憲法学説が公共の福祉論で論ずるところの「内在」という言葉は、人権というものに「あらかじめ付随している」という程度の意味です。

したがいまして、我が国の憲法学説においては、上記の2段階確定vs1段階確定や外在説vs内在説といった学説対立と無関係に、「内在的制約」という言葉が使われているわけです。

もう少しくどくいうなら、
日本の「内在」的制約というのは、人権に「あらかじめ付随している」(=人権には必ずつきものである)制約のことですから、
「人権あるところに(公共の福祉に基づく)制約あり!」と語っているに過ぎません。

このような制約が、内在説(一元説:1段階思考)的に、人権の保障範囲(最終的な保障)の確定の際に考慮されることとなろうが、
外在説(二元説:2段階思考)的に、一応の保護と最終的な保障との区別を前提として、2段階目の最終的な保障の段階で考慮されることとなろうがが、いずれにせよ、どっかしらかに置いては(公共の福祉に基づく)制約について考慮されるわけですから、「内在的制約」という学説にとって何ら問題ありません。

我が国の憲法学説は、これくらいラフな形で内在的制約という語を用いているわけです。
(アメリカ憲法学の影響の強さゆえと思われる...)

こうしたことからわかるとおり、ひょっとすると先生は、「内在」という用語に振り回されてしまっていただけなのかもしれません。樋口教授の文脈でいうところの「内在」と長谷部教授が論じているところの「内在」とは全く別物ですので、くれぐれもご注意ください。。。

Posted by: prima facie | May 30, 2009 at 12:13 AM

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