長谷部恭男教授の憲法学への疑問(8):「切り札」としての人権は切り札足り得ているか?
昨日述べたように、長谷部恭男・東京大学教授の、「『切り札』としての人権」論は、実は、「人権」を全く無価値なものにしてしまう論理である、と私は考えている。そのように考える理由は極めて単純で、長谷部教授の主張をみれば、その理由はすぐに理解できると思う。
上記の主張を明確にするためにも、昨日引用した個所を含めて、長谷部教授が「『切り札』としての人権」論を説明している個所を、少し長いが以下に引用しよう。
「切り札」として働く権利であるためには、いかなる個人であっても、もしその人が自律的に生きようとするのであれば、多数者の意思に抗してでも保障してほしいと思うであろうような、そうした権利でなければならない。そのような権利の核心にあるのは、個人の人格の根源的平等性であろう。他人の権利や利益を侵害しているからという「結果」に着目した理由ではなく、自分の選択した生き方や考え方が根本的に誤っているからという理由に基づいて否定され、干渉されるとき、そうした権利が侵害されているといいうる。この種の制約は、その人を他の個人と同等の、自分の選択に基づいて自分の人生を理性的に構想し、行動しうる人間として見なしていないことを意味する。
たとえば、ポルノグラフィーは道徳的に堕落したものであるから、その出版を禁止することは正当であるという理由づけは、ポルノの読者の道徳的な自律性の否定のうえに成り立っており、ここにいう「切り札」としての権利を侵害することとなる。また、マルクス主義は誤った理論であるから、マルクス主義学説の発表は禁止できるという理由づけも、同様に、個人の自律的な判断を政府が先取りしようとするものである。この種の法律は、個人の根源的な平等性を否定している。個人はそれぞれ自分の考えに従って自由にその生き方を決め、それを自ら生きていくべき存在であり、この点に関する限りいかなる差別も認められない。(長谷部恭男『憲法(第2版)』新世社、121㌻)
長谷部教授はかように述べて、人権とは、社会全体の利益から要求を覆し得るような「切り札」としての性格をもつものだと主張する。
「『切り札』としての人権」などというと、さぞ長谷部教授の主張は人権の重要性を訴えたもののように思えるが、実態は正反対である。長谷部教授は、たとえばマルクス主義学説を発表を禁止する際に、それが「誤った理論であるから」という理由で禁止されると、それは人権侵害となる。しかしながら、マルクス主義が「社会にとって危険な思想だから」という理由で禁止しようとすれば、それは人権侵害とは認められないことになる。上記引用個所にあるように、長谷部教授ははっきりと「他人の権利や利益を侵害しているからという『結果』に着目した理由ではなく、自分の選択した生き方や考え方が根本的に誤っているからという理由に基づいて否定され、干渉されるとき、そうした権利が侵害されているといいうる」と述べている。つまり、長谷部教授の「『切り札』としての人権」論で問題となるのは、どのような根拠に基づいて、特定の人権が制約されるか、である。「自分の選択した生き方や考え方が根本的に誤っているからという理由に基づいて否定され、干渉され」るとしたら、それは不当な人権侵害となるが、そうでなく、別の理由によって「否定され、干渉され」るならば、人権侵害とはならないことになる。社会全体の利益、結果に着目した利益によって特定の権利を否定されるとき、長谷部教授の主張によれば、その権利は決して社会全体の要求を覆すことはできないのである。
このような、一見した見かけとは全く異なる実態を持っているのが、長谷部教授の「『切り札』としての人権」論なのである。長谷部教授の主張を検討するにあたり、最初にも述べたが、これまで述べてきたような私の分析、主張に何かおかしな点があれば、どなたでもご指摘いただければ幸いである。
また、上記のような長谷部教授の憲法論への批判は私以外の研究者もしており、長谷部教授も反論をしている。それらについては後日、あらためて検討したい。
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Comments
>社会全体の利益、結果に着目した利益によって特定の権利を否定されるとき、長谷部教授の主張によれば、その権利は決して社会全体の要求を覆すことはできないのである。
あまりに軽薄な理解で驚きました。
社会全体の利益をもってある論文の出版を禁じるとき、その前提には、その論文を自由に出版させることが社会全体の利益に適わない、という判断があります。その判断を個人に先立って「政府が先取り」することこそが問題なのです。
また、出版の自由の場合、表現の自由に関わることになり、たとえ多数者が「危険だ」「間違っている」などと判断したからといって制約されてはならない種の権利、つまり長谷部教授のいう意味での人権だということになるでしょう。
したがって、マルクス主義の学説が「社会にとって危険な思想」だという理由でその論文の出版を禁ずることは、マルクス主義の正しさやそれが持つ社会にとっての価値についての個人の判断を、政府によって否定されるという点で人権を侵害されていることになります。
あなたは「結果」等の言葉尻のみを捉えて間違った理解の下、嬉々として批判を展開されているように思われてなりませんが、あなたの引用する部分のみから容易にこれらの理解は読み取ることができます。
正直なところ、大学教員をされている方の読解力とは到底思えません。
Posted by: one student | February 27, 2009 at 04:50 AM
コメントありがとうございます。
出版の自由について、「表現の自由に関わることになり、たとえ多数者が『危険だ』『間違っている』などと判断したからといって制約されてはならない種の権利、つまり長谷部教授のいう意味での人権だということになるでしょう」と書いておられますが、「危険だ」という理由づけによると規制と「間違っている」という理由づけによる規制を厳しく峻別するのが、長谷部教授の主張のポイントではないでしょうか。というのも、長谷部教授は、上記記事に引用したとおり、「他人の権利や利益を侵害しているからという『結果』に着目した理由ではなく、自分の選択した生き方や考え方が根本的に誤っているからという理由に基づいて否定され、干渉されるとき、そうした権利が侵害されているといいうる」と述べているからです。ですから、長谷部教授の説によれば、「間違っている」という理由づけによって人権が制限されることはないが、ある行為がもたらす「結果」への配慮から、一定程度人権が制約されることはある、という理解になります。そしてこのこと自身は正当な主張です。
実際問題としても、「表現の自由」の問題を例にとってみても、ある表現行為が治安や安全に与える「結果」という考慮から規制されることは当然ありますし、そうした規制を一概に不当なものと判断することはできません。ただし、そこで問題となるのが、そうした「結果」による規制と人権とのバランスをいかにとるか、ということでしょう。それについては、長谷部教授は、上記部分では何も言っていません。そのことを指摘したのが、私の主張の主旨です。
Posted by: 伊藤高史 | March 02, 2009 at 02:56 PM
長谷部教授は、人権としての「切り札としての人権」と単なる憲法上の権利としての「公共の福祉のための権利」とを区別しております。
長谷部先生はなにも、憲法上の保護が及ぶものを「切り札としての人権」に限定しようとしているのではなく、これまで「憲法上の権利=人権」と一元的に解されていたものを上記の2つに峻別した上で、「切り札としての人権」にことさら強い保護を及ぼすべきであるという主張を展開しているだけです。
表現の自由には、個人の人格的自律に由来する「切り札としての人権」の側面があると同時に、民主主義社会への貢献や社会全体に流通する知識の増大といったことを根拠とする「公共の福祉のための権利」の側面があります。
かりに「切り札」としての側面からの保護が及ばない事例であっても、当然のことながら「公共の福祉」の側面からの保護の可能性が検討されることとなります。
したがいまして、長谷部教授が主張する「切り札としての人権」の立場に同調したからといって、それが表現の自由(人権保障)の弱体化に直結するわけではないと思いますよ。
Posted by: prima facie | May 30, 2009 at 12:31 AM
ご丁寧なコメントありがとうございます。
勉強させていただきます。
Posted by: 伊藤高史 | June 04, 2009 at 08:11 PM